ハローワークまっぷ

貧困と生活保護

貧困の定義

貧困といっても、どこかの国・・・例えばアフリカとか、遠い国の話じゃない。この日本で、今、じわじわと起きていることだ。
国の定義・・・統計を取る時に使っている「貧困」の定義をNHKで説明していた。収入の多い人を上から数えて、真ん中にいる人の収入を半分にして、それ以下を貧困としてるということだ。
こういう決め方がいいかどうかわからないのだが、統計は同じ指標のまま、年数を重ねることで意味が深くなってくるから、そこは議論しない。
そして、この貧困に入る人、ことに女性が増えてきているというのだ。

生活保護

今の貧困者の定義からすれば、税を除いて月に10万を下回る。それでも生活保護に頼らず、自分の力で踏みとどまろうとする人達を、俺は立派だと思う。非常事態、緊急事態というのはあるけれども、苦労しなくても、働かなくても、お金が支給されるとなると、安きに流れやすいのは、人間として多くの人がもつ弱さだと思う。管理人自身も、会社都合の離職(リストラ)で、雇用保険の失業給付を受給して、一番厳しい時を助けてもらって、今は、どうにか暮らせるだけの仕事を得ることができているけども、もし、この失業保険の給付が、無期限にあるとしたら。必死になって再就職に向かって、努力をしなかったのかもしれない。偉そうなことは言えない。
再就職をあきらめ、生活保護を受けてしまえば、俺はもうそのまま流され続けるのだろうと怖かった。やるだけやって、それでもそうなってしまえば仕方がないけども、俺はまだやるだけやったとは、自分に言えない。それだけが、ハローワークやその他の就職支援サービスなどに、しがみついてあがき続けた動機だったかもしれない。
職業に貴賤はない。犯罪はもちろんダメだけど、人が嫌がるような仕事でも、社会が必要としている仕事であれば、いいじゃないか。何もしないで諦める人よりも、それでも、何とかと思う人達を俺は立派だと思うのだ。

何になっても

俺は、これまでの人生、いい給料や条件、また営業上の成績を追いかけて、けして誉められるようなフルマイばかりしてきたわけじゃない。けれど稼ぎはものすごく良かった。そうして奉職してきた会社でも、会社都合の離職でハローワークの世話になることになった。今、再び何とか仕事は得ることができているけれども、それほどすごい収入でもない。でも、もうそんな、人を蹴落としたり敵対したり、陥れたりすることは必要じゃない。成すべきことを、結果、成果物を、しっかり作りだし産み出せばいい。

先日、東京の両国にお客さん先に打ち合わせに行った。その前の渋谷での打ち合わせが予想以上に短い時間で終わり、到着したもののだいぶ時間があった。 でもハローワーク錦糸町の写真でも撮影に行くほどの時間はないw 天気のいい穏やかな日なので両国の町を散策してみようと思った。下町で江戸の歴史の遺構、碑などが多い町だ。いくつか見たのだが、明治の文豪 芥川龍之介のゆかりの場所があり、そこにあった小学校の入り口に、芥川の「杜子春」の最後の一節が彫りこまれていた。「杜子春」といえば小学校の国語の授業なんかで取り上げられたり、夏休みの読書感想文などで、記憶にある人も多いだろうと思う。アラスジは省略するが、興味があれば全文を読んでみてほしい。短編だし。

子供の頃に読んだ時は、「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。」という一文が記憶に残っていた。「怖いなぁ」と「なんかズルイ」とか思ったw また自分のことを思ってくれる母親の部分が記憶にあった。でも、彫りこまれていたのは、最終のあたりだが、違う部分。

「お前はもう仙人になりたいという望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。

最初に読んでから数十年だ。人はパンのみに生きるに非ずというのは大好きな言葉だけど、パンは必要だ。杜子春だって、泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。」と仙人から住まいと食べる方法ももらう。キレイごとばかりじゃ生きていけない世の中かもしれない。でも、キレイごともなくちゃいけないと思うのだ。
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
最後は、それが一番大事なのかもなぁ。

杜子春の全文は、著作権フリーで青空文庫に掲載されている。リンクを張っておく、短いからけっこう楽に読めると思う。