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脱サラして農業

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脱サラして農業

会社を早期退職して、農業を始めました。昔から興味はあったのですが、家族を養うためにもサラリーマンを続けていましたが、子供は独立し妻の了解も得られたので、満を持して夢を実現させました。最初は思うように収穫できず、貯金を食いつぶす生活でしたが3年目を迎えた頃から追い風に乗り始めました。何でも途中で投げ出さずに、続けることの大切さを思い知りました。このまま続けて、地域の活性化に貢献できれば良いなと思います。
By 農家の男 50代 男性 2011年4月頃

貴重な農業体験

お酒を飲まなくても「枝豆」は好き、あるいは召し上がる方は多いと思います。 冷凍食品の枝豆。店頭で見かけるたびに、私は、畑での作業が懐かしく思い出されます。 子供が幼稚園に入園し、朝9時に子供を園に預けてから、お迎えの午後2時まで、何か出来る仕事はないかと思っていました。 そんな時近所の方が、「季節労働だしお小遣い程度にしかならないけど、人数は必要だから、良かったらやってみますか?」と、誘ってくださったのが畑です。 初期費用はゴム長靴とヤッケ(ウインドブレーカー)上下と、ゴム手袋。 子供を園に預けてから、車で5分の場所にある畑に向かいました。 広大な畑では、既に10人くらいの方が、畝の間に1列になって作業をしていました。 管理者の方に挨拶をして、あらかじめ伝えておいていただいた「子供を迎えに行く時間まで」という条件を確認しました。 収穫物を入れるプラスチックのコンテナを渡され、畝の間にある、コンテナをひっくり返した椅子に案内され、穂先を手前に向けて取ること、2粒3粒房だけを選別、1粒房は除く。というルールを手短に教わり、作業開始。 目の前に普通車タイヤ4本分位に積みあげられた束を見て、「果たして午後までに終えられるのだろうか?」と一抹の不安がよぎりましたが、せっせと、黙々と作業を進めている方々の空気に圧され、とりあえず考える前に取り掛かかった方が早いと、手を動かしました。 紹介してくださったご近所さんが、隣で手を休めることなくアドバイスしてくれたり、管理者の方が通りすがりに私のコンテナを覘いて「んっ、きれい」と言ってくださるのが励みになりました。 残暑の9月。ヤッケとゴム手袋の中に汗が流れるような、強い日差しが照りつける日もあり、あるいは、しとしとと小雨がそぼ降る中の作業もありました。 家の中で出会ったら悲鳴が出そうな虫が、作業中ヤッケの膝に上ってきても軽く払い落とせるようになり、だんだん要領を得て、1山終えて、2山目まで掛かれるようになった頃、収穫の時期が終わりました。 キロ単位で換算され、家族でお寿司でも食べに出掛けたら使い切ってしまいそうな報酬でしたが、店頭に並ぶ食品のありがたみを再認識しました。 最後に、除外された1粒房について。毎回頂いて帰り、毎日「枝豆ご飯」にしてもぎたての味を堪能しました。
By ごん 40代 女性 2007年9月です。

研究者から農家へ

生命科学系の研究者になりたくて、大学院修了後に、某研究所に研究員として採用され、3年間研究活動を行いました。しかし、雇用して頂いていたプロジェクトが終了し、次のポジションもとれず職を失いました。その時、たまたま近所の農家の方に頼まれ、ホウレンソウ作りの手伝いを始めました。そして、農業は、研究室の研究と同じように、よい野菜をつくるための研究だということを知りました。一見、まったく異なる業種に見えても、ものすごく近い仕事もあるものだと目からウロコが取れた思いでした。それからは、あまり先入観をもたず、何事もやってみるものだと思ってがんばっています。
農家になった研究者(40代男性) 時期:2006年の春

とある一次産業の職場

私は大学を卒業し、新卒でとある一次産業の職場へ就職しました。社会経験を積みつつ、夢のために資金をためることができればいいと思っていました。しかし、実際に働きはじめると思い通りにならなかったです。いくはずもなかったと今となっては思います。時間外労働は残業とはみなされず、ただ時間だけが過ぎていく毎日。それでいて、忙しい日々の連続。社員があと一人いればどれだけ楽なのだろうという思い。ブラック企業と呼ばれてもしょうがない職場だと思います。そんな企業で働いてきたからか、もうどんな職場に転職しても怖くないという自信が今はあります。おそらく新卒でこの境地に至った人はそう多くないはずです。考え方ひとつで物事は、肯定的にも否定的にも捉えることができます。私もいつかは、あのブラック企業に勤めてよかったと思える日が来るであろうと思います。
むーーー(20代男性) 時期:2014年7月頃

無謀な転職はやめましょう。農業への転職

34歳の頃勤めていた会社は製造業で車に関する仕事をしていました。車もそれに関する製造業も性に合っていたので特段に辞める理由にはならなかったのですが、小さな一族経営の会社だった故人間関係に嫌気がさし勢い余って退職をしてしまいました。その頃漠然と農業がやりたいと思っていたので、そちら方面でなんとか仕事が出来ないかと調べて回ったのですが、中々厳しい。結局は農機具や収入を得られるまでの生活費等で結構な金額が必要だと言う事が解り、結局農業への転職は断念。後先考えずの無鉄砲で軽はずみな転職は考えないようじっくり考えてから行動しましょう。
胡餅太郎(50代男性)
時期:1997年の夏頃のお話。

大卒で地元を離れた就職 実家が農家

実家が農家というものもあり、昔からの考えで行けば、長男が後を継ぐことが当然なはずである。しかし、工業の単科大学に進んだ私が就職先に選んだのは地元の北海道ではなく本州だった。北海道で就職したとしたら実家への思いが頭をもたげ、会社員生活を早々にドロップアウトしていたはず。心を鬼にして、本州への就職を決めましたが、結局実家と縁を切れるはずもなく、離れたからこそ大切さを再認識するものです。一人間に両親は一組です。今、同じように迷っている人がいれば、両親のために生きることも一つの大きな道かもしれません。
コロポコル(30代男性)
体験・経験の時期:2006年春ころ